『残酷な天使のテーゼ』
Director's Edit.Version U
深読みして聴いてみよう
皆様御存知の
『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌である
『残酷な天使のテーゼ 』に、
「Director's Edit.Version U」という、
ミサトとレイとアスカのカバーヴァージョンがあります(正確な表記は「MISATO、Rei、ASUKA」)。
こちらはTVシリーズ終了から映画『シト新生』公開の間に発売されたサントラに収録されています。旧世紀アニラジテイスト全開なCDドラマの
「スケスケスーツ」や
「電車がエヴァに変形」等のネタが、後々新劇場版や『シンカリオン』で
世紀を超えたネタ回収が行われるので、そちらも興味があれば如何でしょう。
さて、私は個人的に「
原曲をある意味で超えるだけの意味・意義の見出せないカバーは
嫌い嫌い大っ嫌い!」と思っているのですが、こちらの三人娘ヴァージョンに関しては
「カバーする意義のお手本」だと考えています。
評価点の一つとして、ヘッドフォンで聴いた時に
「三人の声が左(アスカ)・後ろ(レイ)・右(ミサト)の三方向から別々に聴こえる」という点があります。せっかく三人居るんだからそれぞれ別方向から鳴らす細かい芸で、
原曲では出来ないこのヴァージョンならではの意味が感じられる演出だと思います。
他にも、
アスカの声が少し壁を隔てた遠いところから聴こえてくるような加工がしてあります。先に記載しましたが、この曲が発表されたのはTVシリーズ終了後の『シト新生』公開前で、物語上で当時のアスカは廃人状態です。なので、アスカの声が遠くから聴こえるというのは、
心が壊れて遠い場所に行ってしまっている当時のアスカの状況を反映した演出になるワケで、こちらも知っていると楽しめる細かい芸だと思います。
そしてここからが本題ですが、「作中のキャラクターがカバーをしている」という曲は、
「この歌詞をこのキャラが歌う意味」を味わうのが一番の醍醐味だと強く主張したいのです。
個人的な三人それぞれの歌の評価は以下の通りになります。
・ミサト:キャラのイメージ的にミサトは歌がそんなに上手いとは思えないし、
歌い方に素人っぽいクセのある感じが、劇中で「エバー」とか妙な言葉遣いをするのとリンクして「ミサトが歌っている」感が出ていて、これが合っていると思います。
・レイ:上述のCDドラマならド下手というネタもありですが、作中のイメージからすれば神秘的で
「そりゃそうだよなぁ」と妙に納得してしまう上手さがあるのがレイっぽいと思います。
・アスカ:中の人のキャリアもありますが
「歌詞を読んでいる」ぎこちなさが若干感じられ、それがキャラの年相応な感じに繋がると思えるので、この方が「アスカが歌っている」という感じが出ていると思います。
歌は、単純に
上手ければいいのであれば日本中の曲は全部藤山一郎と美空ひばりが歌えばいい話で(例えが旧世紀)、上手い下手とは別に
「誰が」「どんな風に」歌うのかが曲の味で、それがわざわざ
歌をカバーする意味・意義になるワケです。そういう意味で、ミサトとアスカのパートは歌が上手いとは言い難いですが、「ミサトとレイとアスカが歌っている」というこのカバー曲の存在意義からすれば、
三人それぞれこの歌い方がキャラクター性が出ていて正しいと思うのです。
それから、サビ前のBメロ(Cメロ?)の三回がそれぞれソロパートになっていますが、
割り振りと歌詞の意味が凄くマッチしていると思います。
まず、レイが歌う一番のBメロ
「だけどいつか気付くでしょう その背中には 遥か未来めざすための羽根があること」
ですが、この歌のレイは作中のキャラクターよりも
母性的な、肉体の元となる碇ユイの要素が感じられる声色になっていると思います。
元々この『残酷な天使のテーゼ』自体、視点が母親的な上の位置からの部分が多い曲になっているので、主人公の母親がその未来を示唆するという部分をレイがユイ寄りの感じで歌うのは
内容的にも音楽的にも実に整合性があると思います。
次に、アスカが歌う二番のBメロの
「もしもふたり逢えたことに意味があるなら 私はそう 自由を知るためのバイブル」
ですが、これは
EOEのラストでシンジの最初の他人になったアスカこそ歌う意味があると思います。
エヴァの物語の根幹を成す人類補完計画にあるように、
「他人」という「自分ではない存在=壁」があることで「自分」という概念が形作られます。TV版最終話で、空中に浮かぶシンジに大地を与えて「一つ自由を失ったけど、同時に少し安心する」という場面がありますが、一度失って初めてその存在を知るというのはよくある話で、「自分」だけでは何の制限も制約も無いから自由も不自由も無い、
「他人」が居てその距離を知る事で初めて自分の「自由」を知る事が出来るワケです。
ヤマアラシは、自分独りでは傷付かないし傷付けなくて、相手が居て初めて互いを傷つけ合ってしまうワケで、劇中で
シンジとアスカは互いを傷つけ合ってしまう関係であり、それ故に一方的では無い対等な関係だと思います。「他人が怖いから一つになろう」という人類補完計画が意味するのは「他人=傷付けあう存在」という考え方なのですから、そんな二人の姿こそある意味この作品の象徴で、故に
物語の最後の最後にあの二人が居たのだと言えるんじゃないでしょうか。
ちなみに、トウジとケンスケはシンジの友人ですが、エヴァパイロットという決定的な境遇の違いから考えると(トウジはエヴァに乗って一緒に戦っていないのでシンジと対等なパイロットとは言い難いです)、
真に対等な関係なのはやはりアスカだと思います。
というワケで、「私はそう 自由を知るためのバイブル」の部分を歌うのは、
レイでもミサトでもなくアスカが相応しいと思う次第です。
最後に、ミサトが歌う三番のBメロ
「人は愛をつむぎながら歴史をつくる 女神なんてなれないまま 私は生きる」
ですが、これこそ作中の
葛城ミサトの生き様であり、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の主題歌に相応しい歌詞だと思います。
何故なら、漫画版のあとがきで庵野監督が
「主人公はシンジとミサト」と明言しているように、新劇場版はともかく、この曲を主題歌とする旧世紀版のエヴァはミサトの物語でもあるのです。
エヴァとそれに関わる様々な事象に生き方を翻弄された点でミサトとシンジの共通性は明らかで、事実ミサトはシンジに自分の境遇を重ねていますし、上司と部下であり親子であり姉弟であり恋人であり友人であったミサトとシンジの複雑な結びつきは、
セカンドインパクトを挟んだ鏡写しのキャラクターのような関係性があると思います。
そのような観点から、主題歌のこの歌詞を、他の誰でもないミサトが歌うことは
ある意味で原曲以上の深い味わいを感じられると思うのです。
ついでに言うと、そもそもこの曲の主体である
「私」の立ち位置がちょっと不明瞭です。
基本的には「あなた」に対して視点は上からで、
母が子を見守るような立ち位置です。
ただ、アスカがソロになる「もしもふたり〜」の箇所は、
視点は上からというよりは同じ高さがしっくり来ると思います(劇中に「母親は最初の他人」とありますが、この歌詞の内容とはちょっと意味合いが合わない気がします)。
また、「人は愛を〜」は一人の女性としての生き方のスタンスであり、ここは先に述べたように
ミサトのイメージと合致する箇所なので、ここも
母としての視点とはちょっと違います。
そうなると『残酷な天使のテーゼ』の主体は、
一定でない複数の立ち位置を内包した存在ということになります。そういう意味ではこの曲は、高橋洋子が一人で歌うよりも、
ヒロイン3人で歌うのがある意味でより正確と言えるのかもしれません。
そんなこんなで私の意見を全部まとめると、要するに私は
『残酷な天使のテーゼ Director's Edit.Version U』が大好きですと声を大にして主張したいという話なのでした。
さて、ここまでちゃんと読んでいただいた奇特な方がいらっしゃったらアレですが、『残酷な天使のテーゼ』が
「作詞家は序盤までの話と企画書だけで歌詞を書いた」「作詞家と作曲家が一度も会わずに作られた」というのは結構有名な話で、つまり上記の話は
私の物凄い後付けな曲解でしかないワケです。
こういうヲタクの気持ち悪い深読みこそエヴァを楽しむ醍醐味だと思うのですが、如何でしょうか?
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