せめて、母親ら






・旧作でミサトとシンジは、母と子姉と弟上司と部下恋人同士多重な関係性を孕んでいてセカンドインパクトによって人生を大きく動かされた二人には共通項が多く、ある意味で鏡合わせのような存在であったと思います。事実、庵野監督自身が旧作について漫画版1巻のあとがきで「主人公はこの二人」と言っています。


・しかし、新劇場版は「碇シンジの物語」と『序』の次回予告で他ならぬミサトが言っている通り、ミサトは主人公ではありませんでした。そうであれば、新劇場版における葛城ミサトの役割は何だったのか。


・その答えが明確になったのは、サクラの銃弾からシンジをかばって傷ついた際の「シンジ君がいなければ私たちはとっくに滅んでいた。だから感謝してるの」「碇シンジはあの時もこれからも葛城ミサトの管理下にあって、彼の行動の全責任は私にあります」と言う場面だったと思います(台詞はうろ覚え)。


シンジの行動を肯定し、その責任を負う。それこそが保護者、つまり母のあるべき姿であり、「葛城ミサトは母親であった」と言えると思うのです。


・元々ミサトのシンジに対する接し方は旧作とは明確に違って描かれていますが(例:ヤシマ作戦前)、『シンエヴァ』を観た上で振り返ると、保護者としての側面は勿論ありましたが上司という要素も少なからず残っているように思え、『Q』以降は少なくとも表面上は御承知の通りとすると、「母親」という当確ランプが点灯するのはやはり上記の場面ではないでしょうか。


・旧作では、父に対する愛憎入り混じった感情を原動力に、使徒殲滅やネルフ・ゼーレ等の黒幕の真相を暴く事がミサトの行動原理でした。また、加持に父の面影を重ねたが故に、惹かれながら離れてしまいました。そして結末は御存じの通りで、『EOE』でミサトは自ら「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわ…」と呟いていました。


・それに比べると新劇場版は父の呪縛に囚われている様子は控えめで、最終的には、加持との間に子を成し、父の理論を「世迷言」と切って捨てたことで、父親を完全に払拭することが出来た結果、真の意味で母親になれたんじゃないかな、と。子供が親にしてあげられる事として「殺してあげる事」とは物騒ですが、「殺す=倒す=乗り越える」と三段活用して捉えればまぁ理解出来なくもない。


・また、その後でゲンドウに「大人になったな」と評されるシンジになれたのは、第3村での出来事を経験したのも当然ありますが、「子供=愛に満たされず飢えている」「愛に満たされたと知る=大人」という図式で考えてみると、ミサトから「親の愛情」を得る事でシンジもまた真の意味で完成され、最期の戦いに向かう大きな勇気を得られたと思います。ミサトを助けたいという思いが、一方通行ではなく両想いだったのを確認出来たのは、シンジは勿論我々観客にとっても、物凄く大事なことです。


・ちなみに、碇ユイはシンジの生みの母であり、実際シンジに対する愛情はあったと思いますが、劇中のシンジが明確に「ユイから母親の愛情を感じた」と意識する場面は無かったと思います(ユイがエヴァの実験で消えた事故を境に、母親に関する記憶を封じ込めてしまったのもありますが)。


・ネット界隈でさんざん煽られた「行きなさい→何もしないで」の豹変っぷりですが、元々私としては、目覚めたシンジに対して起きた事の真相を全部話せば当然傷つくし、そんなシンジに優しくする事も立場的に難しいし、加えてシンジが本当に無害か確証が持てない以上迂闊に情報を与えられない等々の状況を考えれば、ワリと納得行くものでした。


・その上で『シンエヴァ』を観て考えると、「御宅のシンジ君のせいでワタクシ達ヒドい目にあったザマス!」という周りの目があって、ミドリのように家族を失った人からすると理屈ではなく感情的にそうなってしまうのも理解出来る以上(ミサトも加持失ってるし)「少なくとも皆の前では厳しくあるのが保護者(親)としての姿」とミサトが考えるのは心情的に十分解る話だと思いますので、被告には情状酌量の余地は十二分にあると言えるんじゃないでしょうか裁判長(その後ネルフに連れていかれた失態は別案件)


・上記に関連して「ニアサーは結果で彼の意志じゃない」とフォローを入れる日向君のミサト寄りの姿勢がちょっと嬉しかったです。この発言は、少なくとも第10使徒侵攻を目の当たりにしてる旧ネルフ関係者はシンジがいなければそもそも皆生きてなかったことを理解してる証左なので、不必要に周囲と軋轢を生みかねない言葉や態度は抑えた大人の対応をしてるってことでしょう。トウジやケンスケは言わずもがな。


・そして結局、シンジを想うが故に塩対応したらああいう結果になっちゃったワケだから、ミサトが情で動くと痛い目見るというリツコの経験則通りなんでしょうけど。


・ミサトの「贖罪は償う意志がなければ意味が無い」という言葉と、ゲンドウが「子供に会わないのが贖罪だと思った」という言葉を合わせれば、息子に会わなかったのと同様に、「シンジを許したいという想いこそ許してはいけない」という行動が、ミサトなりの贖罪という意味もあったと思います。


・最終決戦の最中、新たな槍を届けてシンジを助けようとする事は、即ち「シンジが護る世界=息子リョウジの生きる世界」を護る事と同義です。「母親らしい事が出来ないから」と贖罪の為に息子に関わらなかったミサトは、最後の最後でシンジにとっても、リョウジにとっても、真の意味で母親になれたのだと思います。シンジとリョウジの写真を握り締める最期のミサトの姿は、噛み締める程に心が震えます。


・ちなみにミサトの父親である葛城博士は、旧作では「S2機関」という理論上永久にエネルギーを生み出せる神に等しい理論を提唱しました。旧作でも新劇でも神への道標を目指した父親を、新劇の「神殺し」という印象的なフレーズのように、否定して人としての生き方と世界を選んだのは、葛城ミサトの生き方として「これが正しい」と肯定的に捉えることが出来ました。


・そういう意味では、神を目指した葛城博士が最終的に娘を助けて死ぬというのは、イカロスの翼ではないですが、神を目指すことに対して否定的な意味があり、結局は例え自らを犠牲にしてでも生命を、愛を紡いで生きて行くのが人間ということで、ミサトと父親の最期は似ていたのかもしれません。


・この「神」という概念を、「都合の良いもの」として考えた上で否定するのは、「現実を見ろ」「アニメに逃げるな」という旧劇お馴染みのメッセージに捉える事も出来る気がしますが、それはマゾが過ぎるかしら。


・兎にも角にも、愛するシンジを助ける為に、愛する男と紡いだ愛する息子の生きる世界の為に、愛を紡ぐ為に神に背き生きたのが、葛城ミサトだったのです。ミサトは、新劇場版では主人公ではありませんでしたが、間違いなく『エヴァンゲリオン』という作品の根源を現したキャラクターの一人であったなぁと、『シンエヴァ』を観て強く感じた次第です。


序文
旧劇について
新劇場版について
旧作と新劇の比較について
綾波について
アスカについて
音楽について
最後に
オマケ



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・余談ですが、エヴァで母親と言えば筆頭は碇ユイですが、エヴァにハマって調べれば調べるほど、「碇ユイはヤベーやつなんじゃ…?」ネルフの裏を調べていたミサトみたいな気分になります。


・元々旧作の頃から「ユイの存在が全ての元凶」と怪しまれていた碇ユイさんですが、新劇を経て更に「クレイジーサイコマザー」だの「育夫放棄」だの酷い称号が追加されてしまった感があります(全て個人の見解です)


・ただ、エヴァの世界ではゼーレや裏死海文書(or外典)は元々存在するし、使徒が襲来するのも既定事項ではあるので、ユイが黒幕みたいに言うのはちょっと違うと思います。


・そもそもユイが居なければ「初号機が出来ない」→「使徒侵攻を防げない」→「人類\(^o^)/となってる可能性があるし、彼女が初号機に残ってシンジを護っていなければゼルエルどころかサキエルにすら勝てなかったかもしれないので、ある意味では人類の救世主と言えなくも無いワケです。まぁ、言えないからと言って、それに全面的に同意出来る人は皆無だとは思いますが。


・個人的には、『EOE』の「人が生きた証を永遠に残す」=「人類補完」という考え方は「皆でL.C.L.になって一つに溶け合おう」よりはマトモな気がしますし、新劇の加持の願いとも近いと思います。ただ、その願いを叶える為の方法がおよそマトモじゃない上に、ホントにそれを実行しちゃうんだから、巻き込まれた方はたまったモンじゃないよなぁと。


・他人の迷惑を考えずに手段を選ばず己の目的を果たそうとする姿勢は旦那そっくりというか、この妻にしてあの夫ありというか、ゲンドウがああなってシンジや皆があんな目にあってしまったのも辿り辿れば「やっぱコイツが元凶じゃねぇか」と前言撤回しそうになりますが、一応自制。


・旧作や新劇と比べると漫画版のユイは比較的マトモな気がして、代わりに旦那の悪役っぷりが際立ちますが、拗らせ方はワリとシンプルで解り易いので、やっぱり「貞本エヴァ」は良い作品。